まだ無題

私の古いお友達、忘れ癖は時と場合によってだいぶ酷くなる。時折、普通の人には有り得ないことをすっかり忘れてしまうのだ。自分の家の街、よく通ってた道。親しい人の顔だって髪型などが大きく変わると一瞬わからなくなってしまう。それと、自分のことについてはもっと酷い。
そうやっていつもどこかで迷っている。

だから無意識のうちに、他人の目に止まらない様な生き方を選んでいたのかも知れない。その場にいても気附かれない様に。……いいえ、気遣われない為に。
そんな私が社会で上手くやっていけるはずもなく、ましてや就職活動なんて無駄に終わることは正直な話、最初から目に見えていた。

案の定、あれだけ様々な場所に入れたエントリーシートと白紙の履歴書の殆どが水の泡となった。そう落ち込んでいた時、見計った様に新卒として採用してくれた会社が此処だったのだ。
もちろん凄く嬉しかったし頑張るけれど、なんだか少しだけおかしい。こんな会社に履歴書なんて送ったっけ?という違和感を微かに感じた──ような気がしなくもない。もう過ぎ去った事だし、多すぎて覚えきれないから当たり前かもしれないけど。
そもそもの話、突発的に肝心なことだけ忘れてしまうもので、いつまでも他人に気を遣って貰っては流石に気が引ける。生憎この、生まれつきの影の薄さは、そんな私に落胆する人を減らすのにとても役立ってくれていた。そんな私を雇おうと思ってくれる会社がいたなんて、まだまだ腐ったものではないかもしれない。何かしらできるかもしれない。

初めて入社すると、まずは新人研修っていうのをするらしい。正式な仕事に就く前に色々学んでいく。その一環として、誰かの助手となって業務を覚えるようにと人事課の人に言われた。その後何分かしら経つと、自分よりほんの少しだけ小さい女の人がこちらへ近付いてきた。

角宇野すみうの一四いちよです、此処で記録管として働いています。宜しくお願いしますね、新人さん」
羅宮らみや、零と申します。早く一人前になれるよう頑張ります……ご指導宜しくお願いします」

角宇野さんに付き添い、白い廊下を歩いていく。
黙りのままだとつまらないと思ってしまった私が喋り出したところ、なんだかんだで体感五分で打ち解けてしまった。ずっとずっと上の上司で、少しだけ堅そうな印象だったのに。

一緒に働いて、隣でよく見て手伝って、話してみると彼女が私と色々似ている人なのだとわかった。記録のことは勿論のこと、よく忘れるのでお薬を飲んでいるとか、絵を描いて写真を撮るとか、いつも何かをメモしているとか。忘れん坊なところは自分より相手の方が遥かに大変そうだけど、この数日間で一体何回自己紹介をしたことか。

しかしこれは言い換えると、同じような職員が二人もいるわけだ。



角宇野一四は或る夜、自室で財団人事のデータベースを閲覧した。彼女の目を引いたのはあたかも既に採用された様に追加されている、見たこともない名前のファイルだった。
記憶そのものが常にぼやけているから、このデータベース内の殆どが「見たことのない」名前になってしまうけど。それでもある種の懐かしさや親しみといった感情を浮かべさせる文字列に対して、自分がたった今開いたファイルは何も感じない、白紙の様な感覚だった。

「名前、羅宮零……」

誰もいないとなると、つい口で読んでしまう。思った通り、人事ファイルの殆どは空だった。基本情報と入社日、あと一箇所を除けば。
ロックされてないということは、今の自分がこの情報を知っても問題にはならないということだろうと、彼女は「雇用経緯」欄に目を通した。

「なるほど、自主的な記憶処理ね……。MARSもとても高い数値、それで……?え、事件記録?」

事件記録[編集済]-8
SCP-███-JP
201█年6月17日16:48。██区の市街地で大規模な収容違反が発生しました。
突然【編集済】中に出現した全裸死体により、大規模なパニック状態が起き、民間人の精神異常が幾何級数的に発症しました。
事件現場を通り過ぎていた、羅宮零(1█)氏はその場に立ち止まりました。暴露された様子はなく、正常な精神状態で私物のスケッチブックに現場を絵画していました。
財団はオブジェクトを再収容し、事態を収拾すると共に羅宮氏に短いインタビューを行いました。オブジェクトが描かれた紙は回収されました。
7日間の観察結果、記憶処理は不要だと判断されます。

<インタビュー記録>

.
.
.
角宇野記録官は納得した様子でデータベースからログアウトし、自身のメモ帳を取り出した。もしこれがセキュリティー違反なら、今頃例の薬を持った職員が自室の扉を叩くはずだ。けれど何も起こらない。記録官は一息ついて、いつも通りのメモをする。「後輩」に、先輩として、財団での自らの存在意義を見出してあげる為に。

人間、考えるのは皆似たようなものだ。



「「あの」」

「あっ、その、お先にどうぞ」
「いいえ、良いの。言ってみて?」

朝一、もぞもぞと、数日抱えていた疑問を打ち明けた。

「どうして私、ここに入れたんでしょう……?角宇野さん、私とちょっと似ていて、同じとこがあるとそりゃあ嬉しいですけど……要らなくないですか?私」

言葉が辿々しく、やや卑屈になってしまう。
そうだ、此処にはきっと優秀な人材が沢山いるはずなのに。何の変哲も無い自分がここにいるのは場違いではないのか、なんてことを考えてしまうから。こんなことを言っててもどうしようもないのは承知の上だというのに。
そして角宇野さんは何故か、予想していたかの様な笑みを浮かべた。

「バックアップはいつ、どんな場合でも重要なものよ」
「ば、バックアップ」
「私に何かあったら、誰にこの仕事を継いで貰うの?
それに私とあなたはね、同じじゃないの。今はまだわからないかも知れないけれど、きっとここで働いていく内に見つかるはずだわ」

同じじゃないんだ。
と言われても、角宇野さんの言う通り。違いがあまりよくわからない。あるとすれば経歴と能力の圧倒的な差、なんじゃないの。自分が今どんな顔をしているのかはわからないけれど、彼女は話を続けた。

「今まで見てきたあなたの長所はね、自主的な精神修復能力よ。私にはできないこと……ううん、きっと大抵の職員たちにはできないことだと思う」
「角宇野さんと同じように、ただ物忘れが酷いだけです」
「私は違うわ」

いつの間にか下を向いていた──顔を思わず上げて、彼女の顔を見た。苦い笑顔だった。

「ここには記憶処理剤っていう薬があってね、それを投与されることで都合良く異常現象や機密事項を忘れることができるの」

そんな薬があったなんて、一言聞いて簡単に信じられるわけがない。決して嘘を言っている様には見えないけど、だとしても。どんなお薬だって飲みすぎてはいけないのは常識のうちに入るのに、この会社、そんなに危ないの?

「私の記憶障害は、その薬の副作用。よく忘れるから薬を飲んでいるわけじゃないよ。薬を飲みすぎてよく忘れる、順序が逆なの」
「それって、……なんだか酷いです」
「あはは……普通の人らしい感想ね」
「普通の人だから、当たり前です」

ほんの少しの間隔、彼女の様子を窺うと何か言いたげな表情にも見える。私も改まって少し、固まってしまっている。ここにはどうやら隠された事も、隠したい事も沢山あるみたいだ。敢えて何も問わずにじっと待つと、彼女は言った。

「普通の人たちを守っていこうね」

この会話の日を最後に、研修助手の仕事は終わった。


猶予はある。ただこれから先、色々考えなければならない。垣間見てしまった会社の暗い場面に、「普通の人たちを守ろう」という意味深な言葉。思考が絡み付き、こんがらがって、またもや変な方向へ飛び散ると、何故かしら幾分か昔のことを思い出す。
相変わらず肝心な事だけ思い浮かばないけれど、確かその時私は……下校中に見た街中の、何か変なモノと周りの騒ぎを描いたんだった。そう描いてたらなんか警察っぽいけど警視庁って書いてない制服の人たちがわんさか集まって来て、それから……。





配属の際、真っ先に目を引いたのは、今すぐにでも自由を求めて飛び跳ね散りそうな、彼の胸元のボタンだった。もう第一印象が強烈過ぎる。ボタンに目を奪われながらも、自分の先輩になるであろう男の顔を見た。片方しか残ってない目が合った。

「羅宮と申します」
「やあ。私は記録班隊長の三葦みあし。これから色々と大変だと思うけど、よろしくお願いするね」

──これが三葦一郎太という、人生に於いてもこの「会社ざいだん」に於いても大先輩になる人と出逢った瞬間である。


全体的に肯定的な好感触で、礼儀の正しい人だ。自分からちゃんと近づいてみたいと思える、そんな人だった。

配属先は「記録班」という部署だ。写真や絵画などで事物を記録する事が主な仕事の。
配属後に最初任された仕事は「とにかくなにかを記録する事」で、具体的な対象は何一つ決まっていなかった。三葦隊長に「何を記録すれば宜しいですの?」と訊いても、「今はまだ教えられない」とだけ返された。「この調子で頑張れば、そのうちわかってくる」の言葉と共に。
なら初仕事は「三葦隊長の記録」にしよう。記録のプロである彼を見習えば、忘れ癖もきっとよくなるよ。いつだって私は目立たないから、今まで通り、誰にも気付かれない。

こんなもの、小学生の頃に課される自由研究のようなものだと思うと、なんだか柄にもなく楽しくなってきた。少なくともここ数日までは、そんな気分でいた。


どうやら私が持っていた肯定的な印象は、他の「同僚」からすればどこかおかしいらしい。直接誰かから聞いたことではないけど、視た感じ三葦隊長はあちこちでいつも何かしら言われていた。例えば、暑いからってご自分の個人スペースで全裸になっていた時とか。悲鳴と共に変態だと罵倒されちゃうところを──ちゃんと見ていたことを──よく覚えている。その博士っぽい人(博士だけど)が部屋から飛び出た後、三葦隊長は一人気まずそうにぽりぽり頭を掻いた。
そして、視界の隅に映してしまったんだ。私を。

「……なんで君ここにいるの?」
「あ」

自分がどんな顔をしているのかはよくわからない。彼は目を見開いて、振り返って、先程までの困惑が抜けきれていない表情を浮かべて私を見ている。

「用件……忘れちゃいました」
「忘れちゃいました、って……困った嬢ちゃんだねえ。もしかして、ずっといたのかい?さっきから」

軽く首肯いた。部屋の扉を叩いた時も、勝手に開けて入った時も、「あなた」はぼうっとしていて何も見ていなかったし、何も聞いていなかったよ。だなんて、とても言えそうになかった。そしてずっと部屋の中であなたの記録をしていた、だなんてもっと言えない。こんな感じで気づかれると思っていなかったもので。
あと、何の用事だったのか本当に忘れてしまっていた。

何を言おうかまご着いていると、彼の素肌に無数に見られる痛々しい傷が目に入ってきた。

「……傷だらけ」
「ん?……あー大丈夫、気にされるようなもんじゃないから。それよかどうだい?おじさん結構鍛えてるだろう」
「……不真面目なふりして生真面目ですのね」
「言葉が刺さるねぇ……イマドキの若い子はみんなそんな感じかい?」
「多分、違うと思いますわ。……それから、えっと。そうですね、美しい筋肉だと思います」
「真面目だねぇ……」

真面目……違いない。だってこうして話している時も、ずっと記録をしている。明日には、今日の夕方には、この部屋を出た後に、忘れてしまうかも知れないから。先輩として私の日常に入りつつある人を、これ以上忘れないためにも。

彼が好きそうな運動と筋肉、もし合っていれば、きっとそれは共通の「好き」になれると思って話を振ってみる。

「暑くても運動はするのでしょう?」
「そりゃあ勿論欠かせないね」
「私も好きなんです、セルフトレーニング」
「お、本当かい!それなら話が合いそうだ!やってて損はしないからね」
「ええ。楽しいし、筋肉は裏切らない」
「その通り!こりゃ気が合いそうだぜ、ハハハ!」
「嬉しいです」
私よりも彼は嬉しそうに笑った。


暫くして、記録班の本当の意味を知る。この世ならざる異常な存在の姿を正確に写して、描き、伝える事。
存在の時間を撮り留めろ。一瞬で構わない。
且つそれは非常に危険の伴う仕事でもある。当然だ。恐ろしい化け物やオブジェクトの姿を撮りにいくのだから無傷で済む事の方が珍しい。それでも私は異常な存在を描き続けている。

そんな中でも、三葦隊長──三葦のお兄さんを記録し続けている。理由は最初と変わらない。

三葦のお兄さんは一言で言うと、プロ。
此処にいるために生まれた様な人だった。どんな脅威的なモノでも、綺麗にフレームの中へ収めては帰ってくる。傷だらけの身体がまた傷だらけになって戻ってくる。

「おじさんもまだまだイケるさねぇ、中々のもんだろ?」

一息ついて、カメラを見せ付けつつニッと笑いかけてくる三葦のお兄さんは、仕事の後に必ず私を見つけてくれる。
最初の日から三葦のお兄さんは変わらない。少なくとも私の記憶や記録と比べると、全く同じなんだ。逆にどうしてそう同じ様に生きていられるかが私には分からなかった。
三葦のお兄さんに出会ってからの数ヶ月間、私なんて変わってなさそうで、きっと様々な事が変わっていったんだろう。そんなことを思っていると、現場に慣れている私がこちらを見返してくる。

彼の笑顔と言葉に、何も返すことができなかった。それを知る筈もなく、彼は話し続けた。

「俺たちの武器はこの脚と、マイカメラだからなぁ」
「了解、異常性を記録している三葦のお兄さんを記録します」
「おじさんじゃなくてSCiPあっちを撮りなさーい」



三葦のお兄さんは「文面の記録だけではない、報告書の形成には「写真」が必要」だと、いつも言っていた。彼はそこに確たる信念を持っていた。ハッキリとした考え方と態度には素直に惹かれるけれど、だからかしら収容済み(仮)のオブジェクトを撮影しに自ら向かう事も多い。その度にいつも怪我を負ってくるのだ。そんなお兄さんをも記録して、振り返ってみるとこっちが痛い。自然と応急手当が段々上手くなっていく。

彼の有能さのためか、私みたいに彼の信念に惹かれたためかは知らないけど、撮影班への撮影依頼は絶えなかった。普段は彼一人で記録に向かい、私は未だ見学する立場にある。しかし今日は三葦のお兄さんから直に報告書を手渡された。新しく撮影記録を依頼された報告書だと。
珍しいと思いながらも書類に目を通せば、危険性は低いが認識災害と精神影響を引き起こすそうだ。ただ、今までの仕事で見てきた感じだと、報告書内の「低危険性」はあまり信用できない。

「視認すると影響される奴……レンズ越しでも危ないかも知れませんわ。今回の件、私に行かせてください」
「ちょっと待ちなさい。君はまだ入ってばかりの新入りじゃないか、危険だよ?おじさんの言うことを聞くんだ」
「じゃあどうして今回の報告書は私にも見せてくれたんですの」
「予め確認しとけってことですー。なあに大丈夫さ、おじさんは死なないよ」
「なら……一緒に行きます。死なないお兄さんが私を守ってください、目は閉じて」

肉盾に使うってのかい、と呆れたように笑われる。私も彼も真剣で頑固で、曲げるつもりなどなかった。いくら死なないといっても、精神に影響されてしまうと危ない。何なら頑丈な人の方が危ないかも知れない。
彼自身が一番よく理解しているだろうけど、何より私だって、なんらかの役に立ちたかった。できる人と思われたかった。彼みたいに、記録きたいと思ったんだ。

Unless otherwise stated, the content of this page is licensed under Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 License