燻し銀の……

「其処の青年、何か御座いましたか」
 聲をかけられた方へ振返ると銀色の長髪をなびかす、見ず知らずの少女が佇んでは此方を見つめてゐた。先づ其の少女の髪色や容貌に驚いた、道の人々が必ず彼女を一度は見返して去る程に目立つ格好をしてゐたのだ。忘れられる筈も無いからこそ確信する、僕は彼女を知らない。言い草からするに、彼女も僕を知らないだらう。
「……僕に構つてもつまらんさかい」
 上京して間も無い僕は、生活の事も執筆の事も、実際結構慌たゞしかつた。執筆、と言へど、執筆なんて言へる物でもなく、当の原稿をも返されたばかりの出来事であつた。当然見知らぬ人に絡まれる気持になど為る訳も無かつた故、素気なく返事をしてはき道を急がうとした。さうすれば呆れられるなり何んなりして、自然に離れて呉れるだらうと思つた。然し彼女は動じる事無く、続けた。
「面白半分で構つてゐる訳ぢや御座いませんわ。お話、聴いて差し上げます」
 其れを聞いて僕は不図ふと、足を止めて彼女を見返した。まるで見透かされてゐる様だつた。僕を真直ぐに見つめてくる紅い瞳に、心を撃ち抜かれる気すらした。お話つて、君は一体何が聴きたいのか。僕が話をしても、其れを真面目に聴いて呉れるのだらうかなんて解らない。
其れでも僕は、彼女の言葉に応じる事にした。理由など解らない。感情に任せたとでも言へば可いのか。
「僕の話をけ?はあ……あんやと……?」
日頃の御礼ですわ、何んだか落ち込んでさうでしたし」
 ……ひごろの?矢張り何処か奇変おかしい、怪しい、誰だつてさう思ふ筈だけれど、不思議と其の咲顔えがおから悪気は感じなかつた。
 
 座つて話せる場所は御座いますかしら、と訊く彼女を連れて、銀座の街の或る喫茶の扉を開けると、風鈴がちやりんゝゝゝゝと音を鳴らす。店内が騒しい程ではなくて助かつた。芳ばしい珈琲の香りが漂ふ。
「珈琲、お好きですの?」
「君は如何だい」
「まア其れなりには」
 此んなの普通の世間話ぢや無いか。何故か僕の前に行形いきなり現れては、僕の話を聴いて上げやうと申す人に、一体何を如何話せば好いのだらう。今更悩み初めた。けれど当の相方は急かす様子も、飽きる様子も無く、表情かお一ツ変へずに僕が話を振るのを只管に待つてゐた。
「実は……作文に挑んでみやうと思つてからは、其んなに経つていないんだ」
 唐突に初めた。何んの話ですか、と返されても仕方の無い無茶振りだらうと思つた。
「さうでしたか」
「……向いてゐないと思つてね。最初は翻訳がしたいと思つてゐたのだけれど……」
 彼女は意外にも何も訊かなかつた。只黙つて首肯うなずく。
 本当に僕の話を聞いて呉れると云ふのか。
 不思議な気分にとりかれ、口からは勝手に言葉が溢れ出る。注文した珈琲が配膳され、テヱブルの上に置かれた。


「……だから下手と言はれても……仕方ないよね、なんて思つて仕舞ふ自分が情けないと感じたんだ」
「……さう言はれたのですか」
「何故君が其んな顔をするんだい」
 少女は僕よりも悲しさうに、口惜くやしさうに顔をしかめる。まるで自分の事かの様だ。
「貴方が余りにも平然たる顔をしてゐるからです」
「変な御嬢さんだこと」
「悪るう御座いましたね」
 不貞腐れた様に言ひ捨て、少女は珈琲を一口啜つた。
「……何んでだらうね、見ず知らずの君に此んな事迄も素直に話せるのか」
 僕は少々呆れた風に破顔わらつて見せた。自嘲に限り無く近かつた。
「さう言つて頂けて、好かつたです」
 一体んな生き方をすれば此んな咲顔が少女に咲くのか、僕は彼女の慈愛に満ちた様な、あはれむ様な、只純粋に嬉しい様な、夢を見る様な、愛しいものでも見守るる様な柔かな微笑みを、未だに如何書き表せれば可いか解らない儘でゐる。ぽかんとして、言葉に詰まつて仕舞つた。
 
「私の研究する……或る地味な作家さんが御座いましてね」
「へえ」
 暫くして彼女が話を振った。興味の無い話ではない、寧ろ凄く気を引く話題だ。そして野暮に一ツ、疑問が浮かんだ。
「……君は見た感じ女性なのに、大学にはいれとるんけ」
「えゝ、外つ国の」
 女は学校に行かせるものでない、としか耳にした事が無かつた。其れが当り前の事では無いのだと、今日の様に気附く日が来るのだらうか、未だ未だ程遠い。
 
の人は一見地味だけれども、迚も現実的に物が描写出来る、まるで写真家の様な文章を書くのです。……でも今は彼の魅力を知らない人の方が多くて、私は、其の人の文学を見て欲しいと思ふのですよ」
 其の人が一体誰なのか、僕にはサツパリ分からない。只、彼の遺した文学にんなに熱意を持つて饒舌に論じて呉れる、長所も短所も見て呉れてゐる、認めて呉れてゐる人が居ると言ふ事実が何よりも羨ましく思へた。羨ましくて堪らないと思つた。僕は明らかに、彼女が話す人物に対して嫉妬の感情を抱いてゐた。其れに気附くか否か、彼女は話を続けた。
「其の為に頑張る人が居る、誰も何も無駄な物事は御座いませんわ」
 不思議と、屹度きっと錯覚だけれど、其の言葉は僕に向つてゐる様な気がした。只さう願ひたいだけだと思へども、其れの何が悪い。僕に此の話を聞かせて呉れたのだから、思ふだけなら良いぢやないか。僕は大体何に言訳をしてゐるのか。
「例ひ解つて貰へなかつたら」
 思はず咄嗟とっさに口から言葉が飛び出た。周章あはてゝ口を手で塞いだ。彼女は構はず先程と同じ様な笑みを浮かべ、答えた。併し其の聲は多々重かつた。
「解つて呉れる人は必ず現れますわ、例ひ其れが……其の人の死後でも
「其れは一寸ちょっと佗しいね」
「仕方の無い事です」
 時代が追い付けなかつただけですもの、と、彼女はにがみを帯びた顔でさう付け加えた。此の、恐らく同年代の女性は一体何を識つて、寄にも寄つて僕に、一体何を話したいのか、もう僕には見当も付かなく為つた。幼過ぎたのは僕の方だ、屹度さうだ。
 
「其れにしても……私の容貌に驚かなかつたのは意外でしたわね」
「自覚は有つたのかい……最初は吃驚したけれど、外ツ国の人なら其れが普通だらうかと思へて来たよ」
 金沢では見られないものを東京で沢山目にする、だから何があらうと奇変しくは無いと思ふ様に為つたからでもあつた。僕の答えを聞いた彼女は微笑わらつた。只々微笑ほほえんだ。僕は無性に其れが口惜しく感じた。未だ「田舎者」のレツテルを剥がせない僕だ。態々怒る振りをした。
「田舎から出たばかりだからて、馬鹿にしておるかいね」
「其んなあ」
 相変らずにこゝゝとしてゐる、単なる悪戯心か。限り無く少女の様な人だと、思つた。
「私も向うでは田舎者ですわ。其れで、都会の感想は如何いかがです?人間、何処だつて人の生き様は変らないでせう」
「あゝ確かに、けど環境はより良いよ。君だつてさう思ふだらう」
「えゝ、此の街はとても居心地が好くて……出来る事ならば、離れたく御座いませんわ」
「離れないでは呉れまいか」
「……はい?」
 また、口走つて仕舞つた、けれど今の言葉は率直な思ひだつた。僕は目の前の、此の少女ともつと色々な事を話し合ひたいと、さう望んでゐた。此れが「話相手」と言ふものだと、今に至つて思へた。彼女はやゝ驚いた様子で、大きな目を見開き僕を見た。暫くの間の静寂に少し、羞しく為つてきた。
「……私もさうしたいです、此の街で貴方を応援したいの。けれど、そろゝゝかねば為りませんの」
 返つて来た言葉に混る感情は、何故彼女が初対面であらう僕にそこまで想ひ寄せてゐるか、解らない程のものだつた。相方の気持は解ろうとして解り得るものでは無いのに、其れを直に伝へてゐるかの様だ。
「残念だね。……話を聴いて呉れた御礼だ、金勘定は僕がしやう」
「あら、其れは如何も」
 外つ国の人は無遠慮なのだな、としか思はなかつた。風鈴の音を又鳴らし、二人外へ出た。
「此れで御別れかね」
「半分正解で、半分違います」
 復君は謎めいたことを言ふなあ、如何にも解らぬ人だ。彼女は僕が訊き返す間もあたへずに、話を続けた。其の強引さにやっと慣れて行く処だと言ふのに。

 ────私がもう一度此処に来れる事は御座いませんけれど、何時だつて貴方の事を応援する者が、私が、居る。
 其れこそ、時代も場所もこゑる縁が存在ると言ふ事だけは如何か忘れずに居てね。然様なら。

 

 彼女の最後の言葉であつた。さうつげて彼女は、素速く振返つては走り去つて仕舞つた。突然の事に呆気に為つては、ハツと気を取直して僕も走り出し、彼女を追ひ駆ける。直ぐ近くの曲り角を曲つて、彼女の姿は消えた。遠くへ行けてはゐない筈、同じ様に曲ればだ追ひ着けるだらうと思つた所に、銀色の髪の、如何にも目立つ少女の姿は街の何処にも見当たらなくなつてゐた。

 名も知らぬ少女との不思議な出逢ひは、余りにも呆気無く終つた。


 僕は此の出来事が、いまだまるで夢かの様に感じる。其れと同時に、夢で無い事を強く願つた。
 忘れて仕舞ふ前に、早く書き遺さねば。

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